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先日何気なく本棚から取り出した一冊。
大和出版刊 天台宗253世座主 山田恵諦(えたい)著
「和して同ぜず」を久し振りに眺めていました。
その中にこんな一文がありました。
「正」という文字は
下という漢字と、上という漢字が重なり合って出来ています。
左側の縦棒は、その重なり合いを正しく眺めよ、という意味です。
下とは大地、現実の生活を意味しており、
上とは天、それは自然の道理を示しています。
天にも地にも恥じないという言葉がある通り
常に道理にかなった生活をせよという意味です。
このように正しいという漢字は、
天と地が混然一体であるさまを表しています。
そのことがまた自然の道理で、仏教でいう真理です。
自然の道理にかなうものを真理とし
自然の道理にかなう行いを倫理とし
理想として生活していくことが大切です。
師はさらに付け加えています。
本来人間は真理にかなう存在であり
その心理を認識できる智慧を与えられて生まれている。
とはいうものの私たちは、
数多くの煩悩や欲望に包まれているせいで
真理がなかなか見えてこない。
真理は何億年を経ようと色あせることなく輝き続ける。
その真理を追究しようとする人間の心(霊魂)も
永遠に生き続ける(無量寿)。
慌てることはない。
生まれ変わってまた努力を続ければよい。
そういっておられます。
正しい生活をせよと言われても
煩悩や欲望の多い私などは難題だと思ってしまいますが
生まれ変わった時にまた努力しなさいということだと
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幸せなんて簡単だ。という人がいると仮定しましょう。
その人は、健康でお金があればいいと考えます。
では、どれほど健康で、どれほどお金があればいいですか。と問うと。
その人としては、
絶対病気にならない健康と欲しいものが何でも買えて
一生暮らしていけるだけのお金があればと答えます。
それだけでいいですねと念を押します。
するとその人は
人から愛されたい、尊敬されたい。
交通事故や災害に会いたくない。と答えます。
家族やほかの人はどうでもいいんですね。
と尋ねると。
いや、すべての人が幸せであってほしい。と答えます。
日本も世界も、平和で安全で豊かであって欲しいとも。
いつの間にか簡単ではなくなっています。
こういうことが全部満たされないと
人間は幸せになれないのだとすると
この世の中は不幸が充満していることになります。
また多分こういう人は、
前に挙げたことが全部満たされたとしても
幸福感は味わえないかもしれません。
自分が好きになった相手が、
自分以外の人を愛していたらどうしましょう。
自分が得意になって着ている服と同じ服を
大勢の人が着ていたらどうしましょう。
新たな不幸の芽が次から次に湧いてきそうです。
そう考えた時、
「人の心」というものにたどり着かざるを得ないように思います。応援のクリック、有難うございます。大変励みになります。
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昨日の最低気温が、今日のほぼ最高気温。もう十月も半ば。
これでいよいよ本格的な秋到来となってほしいものです。
「因果応報」などといいますから
原因と結果には確かにそれなりの法則性があるのでしょうが、
どうもそれだけではないような気がします。
目の前に花の種があるとします。
それを目の前に置いて、ただ眺めているだけでは、
いつまで経っても種は種のまま、決して花は咲きません。
それを土の中に植えてやり、水をやり、或は雨露や陽光に恵まれて、
つまり、さまざまな縁の力によって初めて花が咲く。
しかしすべてがこううまくいくとは限りません。
二粒の種を同じように並べて撒いても
片方は小鳥がついばんでしまうかもしれません。
或はやっと芽が出たところを、人が踏みつけてしまうかも知れません。
因果は直接的な関係にあります。しかし実際には、
因果の間に仏教でいうところの「縁」が間接的な力として働いて
因を助けて果を生じさせている、ということではないでしょうか。
あらゆる出来事は、この「縁」によって縦横無尽に結ばれていく
ということになりそうです。
ビリヤードでは、狙う球を直接狙えない場合に、
ひとまず台の縁(ふち)に球を当て、そのクッションを利用して
目的の球へ当てる。そんな方法がります。
上手な人になればなるほど、このクッションを幾重にも利用する。
まさに縁(ふち)を縁(えん)として活用しているわけです。
物事にはこうした間接的なやり方、考え方が
必要なのではないでしょうか。
現代社会では物事を、一見客観的に見える数字に置き換えたり、
物の価値を便宜上お金に換算していますが、
その周囲にある状況、いや情況を無視した単なる計算づくで
因から直ちに果を求めようとすると
大きな間違いを起こすことにもなりそうです。
ですから、神仏に祈るときは
よい結果だけを願うのでは無く「良き縁を結ばせてください」
と祈るが吉だそうです。
縁というものは互いに複雑に影響しあい、作用しあうわけですから
到底計算できない。人知の及ぶところではない。
そういうものこそ神仏のご加護に頼るほかないということでしょう。
何の遠慮もなく延々と縁の話で恐縮でした。(笑)応援のクリック、有難うございます。大変励みになります。
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今週は台風の影響でしょうか、夏に逆戻りしたかのような
日々の連続です。
皆様暑さにめげていませんか、ご自愛くださいね。
秋口のほうがかえって
積もり積もった夏バテなどで体調を崩しやすいもの。
この時期主婦の皆様はご家族の皆様の健康に、
普段以上に気を遣い、心を砕いておいでだと思います。
そんな配慮や気遣いも、相手にはなかなか見えないものです。
「私はこんなに気を使っているのに…」と嘆く声を聴くことがあります。
確かに対人関係で大事なことは、相手への配慮です。
みんながお互いに配慮しあうからこそ、人間関係のバランスが保たれる。
しかし、例えば温泉に行ったとしましょう。
露天風呂で熱くなった体を冷ますために冷たいシャワーを使う。
その際後の人の為に、シャワーの温度を適温に戻しておきます。
でも次にシャワーを使った人は、前に使った人の行為に対して
ほとんど感謝することはない。
ある意味当たり前のことになっていると、
そこにある配慮は見えなくなってしまうことはままあります。
つまり配慮とは本質的に、そういう類のものなのかもしれません。
見えるように気遣いしているうちは、まだ半人前。
気遣いに長けた人の配慮は
なかなか見えないものなのでしょう。
もちろん配慮のない人のそれも見えませんが…
人はたいてい、自分なりに気を使っていると自負しています。
だから自分が配慮していることにこだわり、
それが伝わらないと一方的に不満に思う。
しかし、自分の配慮が相手に伝わりにくいということは
人から受ける配慮もなかなか自分に伝わらないものだ
という道理も知っておく必要がありそうです。
それが気遣いの基本ルールなのでしょう。
見えない気遣いや配慮を
きちんと見抜く目を持ちたいものだとは思いますが…
そのうえでする感謝は、また見えないように。
人は見えないものを見抜くことが、いかに大切なことなのかを
思い知らされます。応援のクリック、有難うございます。大変励みになります。
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今日の記事は、前記事「教えること」とほぼ同義語のような
タイトルですが、前記事で書いた
「教わる側のプロセスに、出来るだけ丁寧に、親身に付き合うこと。」
で思い出したことがありました。
鳥が卵を産みます。やがて時期が来ると、
卵の中では小鳥が内側から卵の殻を突っつき始めます。
「もう生まれたいよ~」という小鳥の合図です。
この機を見計らって、親鳥が卵を外側から突っつきます。
こうして卵の殻が割れて、小鳥の誕生となるわけです。
このことを「そったく」というそうです。
啄は、ついばむという意味、
また口へんに卒、卒は終える、終わるという意味ですから
それに口へんがついて、口による行為で誕生の儀式が終了
ということなのでしょう。
鳥の行為に知恵を借りれば、
「生まれたいよ~」という小鳥の意思を見事にくみ取って
即座に外からも卵を突っつき始める。
この親子の連携プレーは見事です。
こんな風に、見事にタイミングを計り、背中を押してやること。
これが人を育てる要諦なのではないでしょうか。
その為には常に、相手をしっかり観察していなければなりません。
やはり、人にものを教える、人を育てるということは
決して手抜きのできない、極めて崇高な行為なんですね。
人にものを教えること・育てることを職業にしている方々や
世の母親は「凄い!」ですね。
それだけで、十分尊敬に値すると思います。応援のクリック、有難うございます。大変励みになります。
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最近は、年齢的な影響でしょうか、教わることより
教えを請われる事のほうが多くなっています。
もっとも、私の場合教えるなどということはおこがましいので
協力させていただくという具合に考えていますが…
大人社会にあっては
教えるという行為は、時には無力感が付きまといます。
いくら教える側にその意欲があっても
相手にその意欲がなければ
教えるという行為には無理が生じます。
逆に学ぶ側にその意欲さえあれば
教える側は、それなりの努力は付きまとうものの
随分とやり易いもの。
教える側がよすがにするのは、
教わる側に「今の状況を何とかしたい・学びたい」
という強い気持ち、意欲があること。
これしかありません。
究極的には自分の問題は、自分で片付けなければなりません。
他人ができるのは、自力で片付けることのお手伝いです。
教える側は、その方法を頭をひねって考えればいいということになりそうです。
自転車に乗れない人や泳げない人に、
乗り方や泳ぎ方を教える場合と同じではないでしょうか。
いくら教えてやりたくても、教える側にできることは
自転車の後ろを支えてやること。
手を持ってバタ足をさせてやることくらいです。
付け加えれば、時々ちょっとしたアドバイスを挟み込む程度。
しかしこれこそが最高の教え方なのかもしれません。
教わる側のプロセスに、出来るだけ丁寧に、親身に付き合うこと。
これを基本スタンスにすればいいのではないでしょうか。
教えるって難しいですね。
部下を持つ上司の皆様やコンサルタントなど
日頃教えることの多い方々のご苦労をお察しいたします。応援のクリック有難うございます。大変励みになります。
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